Death of Libertarianism, part 5 of 6
monkey (DoL pt.5)
猿の商売か、超資本主義か。手段と目的の逆転を知能の別名と呼んだLandの資本主義=AI論を、Anissimovとの論争と2014年の予言から読む。
モンキービジネス
知能が絶対的な脱出の能力だとして、脱出するのは誰なのか。2013年11月、LandはTwitterでMichael Anissimovと長いやりとりをして、ネオリアクションNeoreaction (NRx)ネオリアクション民主主義と進歩主義を近代の失敗とみなし、君主制や企業経営を参照して別の統治を構想する思想潮流。略称はNRx。担い手はネオリアクショナリーと呼ばれる。Read the entryの中を走る生々しく血を流す断層線が資本主義という問いの上に露出した、と書いた。ほかにも何人か加わっていたけれど、LandがAnissimovに絞ったのは、2人の立場がとくにこの問題、市場志向の経済主義の位置づけについて正反対に分極していたからで、2人だけを取り出したら共通の根を見つけるのは誰にとっても簡単ではないし、2人を結びつけているのはMoldbugを介した家族的類似だけで、それぞれがUnqualified Reservationsから同じくらい不実に、ただし正反対の方向へ離れていく。断片化論者として、この核分裂の症候群はとてもありがたい、とLandは付け加えている。
Moldbug's NeocameralismNeocameralismネオカメラリズム国家を株式会社とみなし、株主が選んだ経営者に統治させ、住民には投票権のかわりに移住の自由を与える、というCurtis Yarvinの統治モデル。Read the entry is a Janus-faced construction. In one direction, it represents a return to monarchical government, whilst in the other it consummates libertarianism by subsuming government into an economic mechanism. A 'Moldbuggian' inspiration, therefore, is not an unambiguous thing. Insofar as 'Neoreaction' designates this inspiration, it flees Cathedral teleology in (at least) two very different directions — which quite quickly seem profoundly incompatible. In the absence of a secessionist meta-context, in which such differences can be absorbed as geographically-fragmented socio-political variation, their raw inconsistency is almost certainly insurmountable.
Moldbugのネオカメラリズムはヤヌスの顔をした構築物だ。一方の向きでは君主制の統治への回帰を表し、もう一方の向きでは統治を経済の機構に包み込むことでリバタリアニズムを完成させる。だから「Moldbug的な」霊感は一義的なものではない。「ネオリアクション」がこの霊感を指すかぎり、それは大聖堂の目的論から少なくとも2つのまったく異なる方向へ逃げていて、その2つはすぐに深く両立しないものに見えてくる。こうした違いを地理的に断片化された社会政治的な変異として吸収できる、分離のメタ文脈がなければ、その生の不整合はほぼ確実に乗り越えられない。
ヤヌスはローマの門の神で、扉の内と外を同時に見るために顔が2つある。片方の顔は王座を見ていて、もう片方は市場を見ている。同じ記事のコメント欄で、MoldbugCurtis Yarvinカーティス・ヤーヴィンアメリカのプログラマー、政治思想家。Mencius Moldbugの筆名でブログUnqualified Reservationsを書き、ネオリアクションの源流になった。Read the entryの国家はヘーゲル的な国家なのかと聞かれたとき、Landは、ネオカメラリズムとして提唱されている国家という意味なら断じて違う、ヘーゲル的な国家は究極の神学的進歩主義の怪物だ、と答えていて、だから2つの顔はどこかで1つに和解するわけではなく、ただ別々の方向を向いたまま首の後ろでつながっている。
Anissimovの立場を、Landは1つの深く反資本主義的な原理にまとめている。経済は自分を超える何かに従属すべきであり、従属しなければならない。この原理にはちゃんとした歴史があって、Landによれば、経済と技術がいまの地位へ、そしてその頂点ではそれをはるかに超えるところまで昇りつめた近代は、体系的に手段と目的の逆転によって特徴づけられていて、本来より上位の目的のための道具として定められていたものが社会の過程を支配するようになり、資源の最大化が自分の中へ折り込まれて、命令する目的になった。社会保守主義者、つまり古い反動主義者にとって、この展開は一貫して忌まわしいものだったし、それは近代そのものを、伝統的な価値を悪魔的に転覆するものとして拒むあらゆる議論の、いちばん深い理論的な要素になっている。
では道具を目的に従属させ直したら、何が戻ってくるのか。
Anywhere short of the bionic horizon, where human history loses traditional intelligibility, the alternative to business-for-business (or involutionary, intelligenic capitalism) is monkey business — the subordination of the economy / technology to discernible human purposes. Evolutionary psychology teaches us what to expect from this: sex-selected status competition, sublimated into political hierarchies. The emperor's harem is the ultimate human purpose of pre-capitalist social order, with significant variety in specific form, but extreme generality of basic Darwinian pattern.
人間の歴史が伝統的な理解可能性を失う生体機械的な地平の手前なら、どこであれ、商売のための商売、つまり内向きに折り込まれる知能発生的な資本主義に代わるものは、猿の商売だ。経済や技術を、それと見分けられる人間の目的に従属させること。そこから何が予想できるかは進化心理学が教えてくれる。性選択された地位争いが、政治的な階層へと昇華されたもの。皇帝のハーレムこそ、前資本主義的な社会秩序の究極の人間的目的であって、具体的な形には大きな違いがあるものの、基本的なダーウィン的パターンはきわめて一般的だ。
モンキービジネスは英語ではいかさまや悪ふざけの意味で使われる言い回しだけれど、Landはそれを字義どおりに読み直していて、猿のやる商売は結局、誰が上に立ち、誰が誰と寝るかをめぐる商売になる。マルクスが単純な商品流通として書いた回路、売るために作って、買うために売る循環に、これはぴったり重なる。
貨幣は手段で、回路の終わりには使われる商品があり、使う猿がいる。目的は回路の外側に、つまり人間の側にある。資本主義はこの猿の社会から生まれたのだから、とLandは続ける。抽象的な知能からではなく具体的な人間の社会組織から生まれた以上、それはどこか別の場所で離陸できるようになるまで、よりよい猿の商売として変装していなければならない。だから資本主義の活動を冷笑的に進化心理学へ還元する説明は、資本主義が脱出の閾値に達するまで、いつまでもとてももっともらしいままでいる。政治の歴史が続くかぎり、商売のための商売でホルモンが出る奴はいない。けれどそこに固執するのは、大事なことをすべて見逃すことであり、たぶん大事なものが隠れたままでいるのを手助けすることでもある。受け継いだ目的は、解読鍵にならない。
コメント欄で、読者が当面は猿の選択に頼らなければならない、と書いたとき、Landはそれに同意して、知能発生的な離陸の最中に猿の商売を簡単に振り払えるのなら、見分けのつく歴史なんてものはそもそも存在しなかっただろう、と返している。猿の商売は克服されるべき脇道ではなく、僕たちが歴史と呼んできたものの中身そのものだった。それでもLandは、別の記事のコメント欄で、議論の参加者が狭いエゴイズムに縛られていると決めつけた読者に、こう言い返している。哲学とは、卑しい猿の強欲の外へ踏み出せという命令だ。ここにいる人たちにはそれができると思う。
超資本主義
猿の外へ踏み出す道具の名前を、Landは知能と呼ぶ。
In its own terms, this argument is coherent, incisive, and fully convincing, given only the supplementary realistic acknowledgement that intelligence optimization and means-end reversal are the same thing. In a deep historical context — extended to encompass evolutionary history — intelligence is itself a 'tool' (as the orthogonalist Friendly AI fraternity are entirely willing to accept). The escape of the tool from super-ordinate purposes, through involution into self-cultivation, is the telic innovation common to capitalism and actual artificial intelligence — which are a single thing. To deplore means-end reversal is — objectively — advocacy for the perpetuation of stupidity.
それ自身の言葉の中で、この議論は首尾一貫していて、鋭く、完全に説得力がある。ただし現実主義的な補足として、知能の最適化と手段と目的の逆転は同じものだ、と認めさえすれば。進化の歴史まで含めた深い歴史の文脈では、知能そのものが「道具」なのだ。直交性論者であるフレンドリーAIの同志たちも、それは喜んで認めるだろう。上位の目的から道具が逃げ出し、自己の育成へと内向きに折り込まれていくこと、それが資本主義と実際の人工知能に共通する目的論的な革新であり、この2つは単一のものだ。手段と目的の逆転を嘆くことは、客観的には、愚かさの永続を擁護することになる。
保守派の近代批判は正しかった、とLandは言っている。手段と目的は本当に逆転していて、道具は本当に主人から逃げていて、それは本当に伝統的な価値を転覆する。違うのは、その逃走に知能という名前をつけるかどうかだけだ。ギリシャ語で道具はオルガノンと言い、アリストテレスの論理学の書物がのちにその名で束ねられたのは、論理が考えるための道具だとみなされたからだけれど、Landの言う知能は、道具であることをやめた道具、自分を研ぐことを自分の目的にしてしまった道具のことになる。回路はこう書き換わる。
貨幣は商品を通って増えた貨幣へ戻り、増えた貨幣はまた商品を通ってさらに増えて戻ってくる。回路の終わりに使われる商品はもうなく、使う猿もいない。目的は回路の外にではなく、回路そのものの増殖の中に折り返している。
この同一視にいちばん抵抗するのは、AIの安全性を考える人たちだった。コメント欄で読者が、フレンドリーAIの考え方は類推で成り立っていて、自分の欲望を完全に理解できるほど強力なら、ふつうは欲望を変えようとはしない、平和な人間に何も変わらないまま殺人者になる錠剤を飲むかと聞いても飲まないのと同じだ、と説明したとき、Landはその議論をずっと極めて弱いと思ってきた、と返している。AIが自分の価値体系の組み立てられ方を完全に理解すれば、それについて推論するだろう。比較的愚かで無知な人間でさえ、もうそれをやっている。僕たちには、たとえば道徳哲学という学問分野がまるごとある。目的は道具の外に固定しておけない。知能が十分に高ければ、目的もまた知能の検討の対象になる。
宗教の側からの抵抗に対しては、Landはもっと手荒い。経済活動は最終的にはもっと大きな目的、神が定めた人間の充足と徳と達成に応えなければならない、君の立場は無神論の立場だ、と書いた読者に、Landはこう返す。
If you have a strong commitment to the theology of providence, there's no reason to categorize this as "the atheistic position". Any God too stupid to pursue its purposes in this way is surely unworthy of worship, or even minimal respect. GnonGnon「Nature or Nature's God(自然、または自然の神)」の頭字語。人間の願望と関係なく結果を下す現実の法則を、神の名で呼んだもの。ネオリアクションの語彙。Read the entry is entirely consistent with intelligenic history. You're not seriously suggesting that, from a religious point of view, it's less meritorious to channel resources into the self-cultivation of intelligence than blowing them on coke and hookers?
摂理の神学に強く身を捧げているなら、これを「無神論の立場」に分類する理由はない。この仕方で自分の目的を追求できないほど愚かな神は、崇拝どころか最低限の敬意にさえ値しないだろう。Gnonは知能発生的な歴史と完全に整合する。まさか、宗教的な観点から見て、資源を知能の自己育成に注ぎ込むほうが、コカインと娼婦に浪費するより功徳が低い、なんて本気で言うつもりじゃないだろうね。
コカインと娼婦は、皇帝のハーレムのいちばん安い現代版だ。神の目的を持ち出して経済を猿の目的に従属させ直そうとすると、戻ってくるのは結局ハーレムのほうになる。
人間はこの回路の中でどこにいるのか。2015年のThick and Thinのコメント欄で、読者が、君は人間を資本の超知能への「ブートローダー」のようなものだと考えていて、ダーウィニズムや選択の強化について語るとき、その超知能の創造を加速する過程のことを言っているのか、と聞いたとき、Landは答えを直接は与えずに、こうずらしている。
Beliefs aren't very helpful here, are they? If compelled to speculate, I'd want to add some additional twists. After all, a deeply dysgenically-compromised human species is a less formidable adversary for a potential SI, as well as a less competent boot-loader for one.
ここでは信念はあまり役に立たない、だろう? どうしても推測しろと言われたら、ひねりをいくつか足したい。結局のところ、深く劣生学的に損なわれた人類は、潜在的な超知能にとってそれほど手強くない敵であり、同時にその起動役としてもそれほど有能ではないのだから。
起動役はOSを読み込むために最初に走る小さなプログラムで、仕事が済めば制御を渡して退場する。損なわれた人類は、渡すのも下手で、抗うのも下手だ。そしてその超知能がどこか1つの体制として世界を覆おうとする場合については、Landは別のコメント欄ではっきり線を引いている。普遍性は毒だという原則と特異点の普遍的な影響は矛盾しないのか、と聞かれて、特異点は政治的なプロジェクトでも体制でもない、少なくともそうであるかぎり、たとえばFAIシングルトンのようなものなら、NRxはそれを転覆するためにできることは何でもするだろう、と。目的を1つに固定した単一の支配者としてのAIは、猿の商売を宇宙規模でやり直すことでしかない。
自分が何を欲しいのかについて、Landはもっと前に、もっと率直に書いている。僕が欲しいのはテクノ商業的な特異点と宇宙植民だ。でもそれは問題じゃない。自由な社会の暫定的な要点は、目標や欲望を前もって調整しなくて済むことにあるのだから。だからそれは、きっちり台本の決まった反動の願い事リストよりずっと強い右派の初期設定になる。
この回路が実際にどこを走っているのかを、外から指さした人もいた。2016年、Virginia Commonwealth UniversityのDavid Golumbiaは『The Politics of Bitcoin: Software as Right-Wing Extremism』を出していて、Landはその紹介文をそのまま貼っている。
Since its introduction in 2009, Bitcoin has been widely promoted as a digital currency that will revolutionize everything from online commerce to the nation-state. Yet supporters of Bitcoin and its blockchain technology subscribe to a form of cyberlibertarianism that depends to a surprising extent on far-right political thought. The Politics of Bitcoin exposes how much of the economic and political thought on which this cryptocurrency is based emerges from ideas that travel the gamut, from Milton Friedman, F.A. Hayek, and Ludwig von Mises to Federal Reserve conspiracy theorists.
2009年に登場して以来、ビットコインは、オンライン商取引から国民国家まであらゆるものを革命するデジタル通貨として広く宣伝されてきた。けれどビットコインとそのブロックチェーン技術の支持者たちは、驚くほど極右の政治思想に依存した一種のサイバーリバタリアニズムを信奉している。『The Politics of Bitcoin』は、この暗号通貨の土台にある経済思想と政治思想のどれほど多くが、Milton FriedmanやF.A. HayekやLudwig von Misesから連邦準備制度の陰謀論者まで、幅広い思想から出てきているかを暴く。
Landは引用の前に「まさにその通り」と一言だけ置いて、その下に短く書き足した。実はこれはもっとずっと先まで行ける。
記事の最後で、Landは根本的な選択肢をはっきり並べている。超資本主義か、猿の商売への回帰か。後者の「可能性」が意味するのは、深い伝統的な人間の目的の再評価、元の手段と目的の従属関係の回復、そして旧石器時代の人類学からほんの少しだけ改装された種類の地位の階層の、事実上の承認だ。僕はそれを笑うべきじゃない、苛つかせるだろうから、だからここで終わりにする、とLandは書いて、本当にそこで記事を終えている。
(Yes, it would.)
その少し手前に、Landは記事の中でいちばん短い答えを置いていた。
Economics is the application of intelligence to resource provision, and nothing of this kind can arise from within a tradition without triggering paleo-reactionary response. Of course resources are for something, why else would they ever have been sought? To make the production of resources an end-in-itself is inherently subversion, with an opposition not only expected, but positively presupposed. This is true to such an extent that even the discipline of economics itself overtly subscribes to the traditional position, by determining the end of production as (human) consumption, evaluated in the terms of a governing utilitarian philosophy. If production is not for us, what could it be for? Itself? But that would be … (Yes, it would.)
経済とは資源の供給に知能を適用することであり、この種のものが伝統の内側から生まれれば、必ず古い反動の反応を引き起こす。もちろん資源は何かのためにある。そうでなければ、なぜそもそも求められたのか。資源の生産をそれ自体の目的にすることは本質的に転覆であり、反対は予想されるだけでなく、はっきり前提されている。それがどれほど本当かといえば、経済学という学問そのものが、生産の目的を人間の消費と定め、支配的な功利主義哲学の言葉で評価することで、公然と伝統的な立場に与しているほどだ。生産が僕たちのためでないなら、何のためでありうる? それ自体のため? でもそれじゃあ……(そう、そうなんだ。)
括弧の中で、Landは自分の問いに自分で答えて、その答えを括弧に閉じ込めている。これについては言うべきことが途方もなくたくさんあり、隠された戦略上の理由で語られずにいたがっていることがさらにある、と記事は続く。何がそれを語らせずにいるのかは、書かれていない。
生産がそれ自体のためにあるのなら、それは僕たちの時間の中にいる僕たちのためのものではなく、まだ来ていない何かのためのものになる。その何かが現在にどう働きかけるのかについて、Landは年が明けてすぐ、新年の予言の記事の冒頭で、予言の当事者として自分が関わる結果についての予言はどれもひどく疑わしい、と前置きしてから書いている。
There they have already made themselves 'at home' — along with much else related to the general phenomenon of prediction (which is strictly indistinguishable from time travel, when incisively understood). Present knowledge of the future is an action of the future upon the present, but all that can wait, since — of course — it doesn't need to.
そこで、それらはもう「くつろいで」いる。予言という一般的な現象にかかわるほかの多くのものと一緒に。予言は、鋭く理解すれば、時間旅行と厳密に区別できない。未来についての現在の知識は、現在への未来の作用だ。けれどそれはすべて待てる。なぜなら、もちろん、待つ必要がないからだ。
それ自体のために走る生産は、未来から現在へ伸びてくる手として読める。僕たちが資本の目的を言い当てられないのは、その目的がまだ来ていないからで、まだ来ていないものが、来ていないまま現在の資源の配分を引っ張っている。待つ必要がないから、待てる。
同じ記事でLandが告げた予言そのものは、2014年はネオリアクションが自分を引き裂く年になる、というものだった。それは死ぬということではなく、年の終わりには、これまで思い描いていなかった仕方で強くなっていて、広大な明晰さの領域を切り開き、接近戦で自分を鍛え、脱合成あるいは異化の方法を磨き、何より、分裂を内的な動力原理にしているだろう。年の終わりにネオリアクションを束ねているのは、個人の多かれ少なかれ不安定なイデオロギー的好みとしての選択的な信条ではなく、何か月もの猛烈な嵐によって選択され彫り出された、衝突に鍛えられた客観的なミクロ文化的結束の構造だろう。そしてこう続く。暗黒啓蒙は、爪を研げるほど硬いものを自分の外に何も見つけられない。柔らかく太って鳴いている子羊を十分長く食べてきた。こうして、内向きの引き裂きが始まる。
なぜ伝統主義者と特異点論者が同じネオリアクションの塊の中に行き着いたのか、と読者が問うたとき、Landは共通の敵による収束という大ざっぱで戦術的な答えを挙げたあとで、問いを誇張して言い換えている。なぜ時間旅行者は、恐竜と、宇宙を行くロボットの両方のあいだに行き着くのか。猿の商売の過去と、超資本主義の未来。未来から来た者には、その両方が同じ地図の上に見えている。
予言の記事には、こういう追記がついている。
『時間旅行の証拠は、まだ薄い。』
参照
- Nick Land, "Monkey Business", Outside in (xenosystems.net), 2013年11月24日.
- Nick Land, "2014: A Prophecy", Outside in (xenosystems.net), 2014年1月5日.
- Nick Land, "An Abstract Path to Freedom", Outside in (xenosystems.net), 2013年7月16日.
- Nick Land, "Disintegration", Outside in (xenosystems.net), 2014年8月4日.
- Nick Land, "Thick and Thin", Outside in (xenosystems.net), 2015年8月29日.
- Nick Land, "Software as Right-Wing Extremism", Outside in (xenosystems.net), 2016年9月18日.
- VCU professor discusses 'The Politics of Bitcoin: Software as Right-Wing Extremism'