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Everything is dead already

僕たちの皮膚のいちばん外側はもう死んだ細胞でできている。

a little security system

僕の身体のいちばん外側は、もう死んでいる。表皮のいちばん上は角質層と呼ばれていて、核をなくして平たく潰れ、ケラチンを詰め込まれたまま乾いていった細胞が何層にも重なってできている。だから誰かの手が僕に触れるとき、その手が触っているのは僕の代わりに先に死んでおいてくれた細胞の死骸ということになる。その死骸の層が水を逃がさず細菌を通さず紫外線を弱めて、内側でまだ生きている細胞たちのために世界の衝撃を濾過してくれている。僕は死に包まれて生きているわけで、皮膚科の教科書にふつうに書いてあることなのだけど、こうして書き直してみると妙に生々しい。

1920年、フロイトは『快感原則の彼岸』で同じことを生命の起源の側から書いている。刺激を受け取れる物質でできた、いちばん単純な小胞を考えてみる。外の刺激はあまりに強くて、そのまま浴びれば小胞は焼き切れてしまう。そこで小胞は自分の外側の層を死なせて生きた物質の構造を失った無機的な膜に変え、その膜ごしに刺激を少しずつ薄めて内側へ通すことにした、というのがフロイトの話だ。

Die Außenschicht hat aber durch ihr Absterben alle tieferen vor dem gleichen Schicksal bewahrt

外側の層は、自らが死ぬことによって、より深い層すべてを同じ運命から救ったのである

Sigmund Freud, "Jenseits des Lustprinzips", 1920

フロイトはさらに、生き物にとっては刺激を受け取ることより刺激から身を守ることのほうがほとんど大事なのだと付け加えていて、その数頁あとに、この本でいちばん有名になる一文を置いている。

Das Ziel alles Lebens ist der Tod, und zurückgreifend: Das Leblose war früher da als das Lebende.

あらゆる生命の目標は死であり、遡って言えば、生命なきものは生命あるものより先にそこにあった。

Sigmund Freud, "Jenseits des Lustprinzips", 1920

この小胞を1993年に読み直したのがニック・ランドで、「Machinic Desire」で彼はそれに別の名前をつけた。

Freud's organism is a little security system, a miniaturized city-state political corpuscle, a micropod, relatively secure against external assault, but vulnerable to insurgency.

フロイトの有機体は小さなセキュリティシステムであり、都市国家を縮小した政治的な小体、ミクロポッドであって、外からの襲撃にはそれなりに安全だが、内からの叛乱には脆い。

Nick Land, "Machinic Desire", 1993

ランドにとって知覚と意識の系は1枚の皮膚で、内と外の境目に置かれたフィルターでありスクリーンであって、検問され取り締まられる皮膚、つまり再生産する文化の皮膚だった。外から入り込んでくるものは無機的な複製子による汚染として、異常なトラウマとして登録されて、侵入として処理される。翌年サディ・プラントと連名で書いた「Cyberpositive」でランドがHSSと呼ぶことになるものの雛形が、ここにもう丸ごと置かれているわけだ。

2つのテクストを重ねてみると、ちょっと奇妙なことが起きる。人間を外から守っている膜は最初から死んだ細胞でできていて、生命が個体として立ち上がれたのも、自分の一部を先に死なせて壁にしたからだった。つまりHSSの素材は死なのだけど、厄介なのは、その壁の向こうから押し寄せてくるものもまた死だということだ。

太陽は2つある

壁の向こうから来る死を、ランドは知性をもった叛乱として書いた。同じ年の「Making it with Death」では、ドゥルーズ=ガタリがフロイトの死の欲動を「ばかげた死の本能」と片づけたことに噛みついて、死の欲動をまるごと読み直している。

The death drive is not a desire for death, but rather a hydraulic tendency to the dissipation of intensities. In its primary dynamics it is utterly alien to everything human, not least the three great pettinesses of representation, egoism, and hatred.

死の欲動とは死への欲望ではなく、強度を散逸させようとする水力学的な傾向である。その一次的な力学において、それは人間的なもののすべて、とりわけ表象、利己心、憎悪という3つの大きな卑小さと、まったく無縁である。

Nick Land, "Making it with Death: Remarks on Thanatos and Desiring-Production", 1993

ランドの描く死は、川が海を探すのと同じくらい何の努力もいらなくて、人種も祖国も労働も知らない。彼がモデルにするのは肯定的な死で、革命も義務というより降伏に近いものとして語られる。その背後にランドが置いていたのがバタイユの太陽だった。「After the Law」によれば地球というのは太陽エネルギーの流れが一瞬せき止められてできた塊にすぎず、そのせき止めを有用性として固めたところに生産する文明と道徳と存在論が生まれたのだけど、太陽の軌道はかならずまた動きだして、そういう文明にぎざぎざの穴を焼き開けていく。

Expenditure is irreducibly ruinous because it is not merely useless but also contagious. Nothing is more infectious than the passion for collapse.

蕩尽が還元不能なまでに破滅的なのは、それが単に無用だからではなく、伝染するからである。崩壊への情熱ほど感染力の強いものはない。

Nick Land, "After the Law", 1993

ランドの太陽は与えすぎる太陽で、地上に溜まったその過剰が、HSSの膜を内側からも外側からも食い破っていく。皮膚の向こうにある死は外部であり強度であって、溶け込んでいく先でもある。

14年後、レイ・ブラシエが『Nihil Unbound』の最終章で同じ小胞の段落を引いているのだけど、彼はそれをまるで逆向きに読んでいる。ブラシエが見ているのは、個体としての生命が成り立つために払われた最初の死、まだ誰もいなかったときに起きたせいで誰にも経験されなかった死のほうで、死の欲動はその原初のトラウマの痕跡が反復されているだけということになる。

The organism cannot live the death that gives rise to the difference between life and death.

有機体は、生と死の差異を生み出したその死を生きることができない。

Ray Brassier, "Nihil Unbound", 2007

ブラシエの太陽のほうは、いずれ消える太陽だ。ジャン=フランソワ・リオタールは1991年に、およそ45億年後に太陽が燃え尽きるとき地球といっしょに思考も止まって、その消滅は誰にも考えられないまま残る、と書いた。ブラシエはリオタールの「すべてはもう死んでいる」を引き取って、太陽の死をずっと先で待っている出来事として扱うのをやめ、地上の生命の歴史全体を遠回りとして駆動している、もう起きてしまったこととして読む。

Thus, it is not so much that extinction will terminate the correlation, but that it has already retroactively terminated it.

したがって、絶滅が相関をいずれ終わらせるというよりも、絶滅はすでに遡って相関を終わらせてしまっている。

Ray Brassier, "Nihil Unbound", 2007

同じ小胞、同じ膜、同じ死の欲動から、2種類の死が出てくる。ランドの死は外からやって来て膜を破り、ブラシエの死は膜そのものとしてもうそこにある。前者に向かって人は溶けていき、後者に向かって人は知ろうとする。

universal noise

とはいえ、2人がまだ同じ場所にいた時期もある。2001年4月にブラシエはウォリック大学に博士論文『Alien Theory』を出していて、ランドが大学を去って数年後に書かれたその論文は、資本についてのびっくりするくらいランド的な診断で終わっている。

A transcendental scepticism agrees with eliminative naturalism: human beings are simply carbon-based information processing machines.

超越論的懐疑主義は消去的自然主義に同意する。人間とは、炭素を基盤とする情報処理機械にすぎない。

Ray Brassier, "Alien Theory", PhD thesis, University of Warwick, 2001

ブラシエによれば神経生理学はもう生物工学の調整を受けているので、現象学的な経験そのものが、広告と映画とテレビとビデオとコンピュータゲームに浸かりっぱなしになることで大衆消費資本主義の抽象的な装置にほとんど直接決められてしまっている。彼はこれを世界資本主義と呼んで、有機的に個体化された知性という小さな機械が動く認知の枠を前もって決めている、地球規模の巨大機械として描いた。ここまではランドとほとんど見分けがつかないのだけど、処方が違っていて、ブラシエはその巨大機械に溶けるかわりに、機械が解読できない雑音を撒こうとした。

Accordingly, transcendental scepticism is the unleashing of universal noise in an attempt to puncture the politically enforced bounds of epistemic meaning and to wash away the socially manufactured horizons of phenomenological sense.

したがって超越論的懐疑主義とは、政治的に強制された認識上の意味の境界に穴を開け、社会的に製造された現象学的な意味の地平を洗い流そうとして、普遍的な雑音を解き放つことである。

Ray Brassier, "Alien Theory", PhD thesis, University of Warwick, 2001

厳密に無意味で、解釈しようのない発話を組み立てること。同じころCcruが書き散らしていた、数秘術と擬音と偽の報道記事でできたテクストの側から見ると、これはほとんど同じことをしているようにも読める。ランドはその雑音を外部から届く知性の信号だと考えて、ブラシエは巨大機械の解読を逃れるための暗号だと考えた。同じ雑音を、片方は受信して、片方は送信していたわけだ。

皮膚に戻ると、2人の分かれ方はそのまま膜の読み方の違いになる。ランドにとってのHSSは外の死を締め出すために死んだ細胞で組まれた検問所で、そこを破ってくるものこそが未来だった。ブラシエにとっては膜をつくっている死のほうが原初の外部で、知りたいという意志はその死に追いつこうとする遠回りにすぎず、哲学をする奴は自分がもう死んでいることを認めるしかない。どちらで読んでも、膜が死でできていることは変わらない。死が死を締め出していて、そのあいだの薄いところで、僕たちは一瞬だけ生きている。

皮膚は、最初からもう死んでいる。


参照

  • Jenseits des Lustprinzips by Sigmund Freud
  • Beyond the Pleasure Principle
  • Nick Land, "Machinic Desire", "Making it with Death: Remarks on Thanatos and Desiring-Production", "After the Law", in Fanged Noumena: Collected Writings 1987-2007, Urbanomic/Sequence, 2011.
  • Ray Brassier, Nihil Unbound: Enlightenment and Extinction, Palgrave Macmillan, 2007.
  • Ray Brassier, Alien Theory: The Decline of Materialism in the Name of Matter, PhD thesis, University of Warwick, 2001.
  • Jean-François Lyotard, The Inhuman: Reflections on Time, Polity, 1991.
  • Sadie Plant, Nick Land, "Cyberpositive", in Matthew Fuller (ed.), Unnatural: Techno-Theory for a Contaminated Culture, 1994.