Death of Libertarianism, part 2 of 6
zombie (DoL pt.2)
リベラタリアンという死体を掘り起こし、L₀ − L₁ = N で余りなく引く。引き算のあとに残った空欄から、ゾンビとDark AnCapという逆向きの2つが起き上がる。
血清は左目から
死んだものは、いつまでも死んだままでいてくれるとは限らない。2013年9月、Landはリベラタリアンという言葉を最近あまり聞かなくなったと書きはじめる。見た目の問題もあるだろうけれど、それだけじゃない。ここ最近のアメリカ政治は、現代の「リベラリズム」と国家の最大限の膨張という計画が完全に見分けのつかないものだと疑いの余地なく示してしまったから、リベラルとリバタリアンの融合はもうコントをやることしかできない。そこへReason誌が「リベラタリアニズムは死んだのか? それとも、そもそも一度でも生きていたのか?」と問いを立てていて、Landはそれをゾンビ狩りの合図として受け取った。
Liberaltarianism has been freshly exhumed specially for Outside in readers, and the zombie serum injected through its left eye, directly into the amygdala. It might seem rather ghoulish, but let us harden ourselves — for science.
リベラタリアニズムはOutside inの読者のために特別に掘り起こしたてで、ゾンビ血清はその左目から扁桃体へ直接注射してある。ちょっと悪趣味に見えるかもしれないけれど、ここは心を鬼にしよう。科学のために。
この不条理によろめく標本は、思想的にも歴史的にも面白いひとつのエレガントな公式を磨き上げる助けになる、とLandは続ける。死体はまず喋らされる。喋るのはBrink Lindseyで、彼はかつて、いまのイデオロギーの混乱はリベラリズムが統治哲学として再生するための隙間を開いた、リバタリアンの関心と洞察を取り込んで作り直されたリベラリズムなら、文化の進歩と経済の進歩を1つの旗の下に束ねる本当に進歩的な政治をもう一度可能にできる、と書いていた。
But an honest survey of the past half-century shows a much better match between libertarian means and progressive ends. Most obviously, many of the great libertarian breakthroughs of the era—the fall of Jim Crow, the end of censorship, the legalization of abortion, the liberalization of divorce laws, the increased protection of the rights of the accused, the reopening of immigration—were championed by the political left.
しかしこの半世紀を正直に振り返れば、リバタリアンの手段と進歩派の目的のほうがずっとよく噛み合っていることがわかる。いちばんはっきりしているのは、この時代のリバタリアン的な大躍進の多く、つまりジム・クロウの終わり、検閲の終わり、中絶の合法化、離婚法の緩和、被告人の権利保護の強化、移民の再開放が、政治的な左派によって推し進められたということだ。
リストの先頭にジム・クロウが来ているのは偶然じゃない。Landは同じ記事で、リバタリアン化されていない左派からの視線も引いていて、それによればリバタリアンは根っこがリベラルか根っこが封建的かのどちらかで、封建的なリバタリアンなら原理的にはジム・クロウに何の問題も感じないはずで、リベラルなリバタリアンなら感じるはずだということになっている。Landはここで、奇妙なことにまだジム・クロウの話をしている、まるでアメリカ史の意味全体がそれで表現されるかのように、と呆れてみせる。問題はジム・クロウそのものよりも、この枠組みが作動するやり方のほうにあって、人種的な平等を追い求めるために政治の領域を広げることへのためらいは道徳的なスキャンダルとして解釈され、そのスキャンダルを解消する方法としては自由をこれ見よがしに差し出すことしか許されない。何もしないことが、もう「封建主義」なのだ。そしてこのダムがリベラタリアン的な妥協へ決壊したとき、細部を管理する国家は求めるものをすべてすでに手に入れている。封建主義を踏み潰せば自由になれる。
ゾンビの噛み方はこれで、噛まれた奴は自分が噛まれたことに気づかない。自由の名において政治の領域を広げることに同意したその瞬間に、自由はもう進歩の道具に書き換えられていて、書き換えられた自由はさらに次の奴を噛みにいく。Landの診断はこうだった。
Libertarian means and progressive ends. Could it imaginably be said more clearly? Liberty is legitimate if, and only if, it serves to promote the consolidation of the Cathedral (through chaotic multicultural criminality), which is then retrospectively interpreted as the intrinsic telos of freedom. Whatever does not subordinate itself to this agenda is to have its brains eaten, and be systematically recycled into progressive zombie flesh. This is a project for libertarian hipsters and Leviathan apparatchiks to undertake hand-in-hand — fusionally. The new age of the cannibal is come.
リバタリアンの手段と進歩派の目的。これ以上はっきり言えるだろうか。自由が正統であるのは、それが混沌とした多文化的犯罪性を通じて大聖堂の強化に役立つときだけであり、その強化があとから自由の内在的な目的として解釈し直される。この議題に従わないものはすべて脳を食われ、進歩派のゾンビ肉へ組織的にリサイクルされることになる。これはリバタリアンのヒップスターとリヴァイアサンの官僚が手に手を取って、融合的に取り組むプロジェクトだ。人食いの新時代が来た。
L₀ − L₁ = N
ゾンビを解剖する前に、Landは自分たちがどこから来たのかを確認しておく。
Neoreactionaries are libertarians mugged by reality (to adapt a pre-coined phrase).
ネオリアクショナリーとは、現実に襲われたリバタリアンのことだ(既存の言い回しを借りれば)。
借りてきた言い回しの元は、ネオコンとは現実に襲われたリベラルのことだ、というIrving Kristolの古い定義で、Landはその主語を入れ替えただけなのだけれど、入れ替えた主語のほうはずっと正確に当たっている。Moldbug自身の知的な出自だけでもこの主張を固い地盤の上に据えるには十分で、しかもそれは例外ですらなく、リバタリアンの思想は哲学的にエレガントで経済的に魅力的なのに歴史的にも政治的にも現実的ではない、という認識こそがネオリアクションの代案を発展させ採用させてきた触媒的な洞察だった、とLandは書く。その代案は、進歩派の系統から受け継いだいくつかの神話的な要素、何より実質的な平等主義を剥ぎ取られている。ここまでは経験的に頑丈な物語だけれど、まだ公式じゃない。次の一歩を踏み出そう、と言ってLandは書く。最後の科学、万歳。
まずLandは、かつてリベラタリアンだったネオリアクショナリーはいるのか、と問う。答えは簡単に予測できるとLandは言っていて、ネオリアクションの知性がこのよろめく認知的廃墟を見たら、心底の嫌悪とともに自分の内側へ縮こまる。リバタリアンの妄想のうち自分が忌み嫌っていたものすべてが、哀れに滴りながら目の前に立っているのだから。捨ててきた誤りの完璧な戯画、反省を欠いた普遍主義がにじみ出る塊、アンデッドの腐敗病として蘇った古典的自由主義。それでもLandは、リバタリアニズムがゆっくり確実にこのゾンビへと堆肥化していくのが必然だとは考えない。
Yet we have Hoppe, and so we know that the directives of self-coordinating liberty need not take this path. There is, unmistakably, something other to libertarianism than what is seen in the figure of its zombified, liberaltarian ruin. Through a type of negative political theology, we can formulate it:
Lo – L1 = N
First, identify every specifically emphatic feature of liberaltarianism, then subtract it without residue from the old Austro-libertarian matrix, and what remains is the neoreactionary template — abstracted due to the provisional (negative) place-holders for yet undeveloped topics: presumed non-equality, non-universality, non-progress (in socio-cultural matters), and at least partial non-autonomy (of the economic agent from fragile structures of civility). Slaying the zombie does not, in itself, fill these gaps — but it holds open the gaps, and therefore the avenues of neoreactionary exploration.
けれど僕たちにはHoppeがいる。だから、自己調整する自由の指令がこの道をたどる必要はないとわかっている。リバタリアニズムには、ゾンビ化したリベラタリアンの廃墟の姿に見えるものとは別の何かが、紛れもなくある。一種の否定的政治神学によって、それを定式化できる。
まず、リベラタリアニズムに特有の強調点をすべて特定し、それを古いオーストリア学派のリバタリアン的母体から余りなく引く。残るのがネオリアクションの雛形で、まだ展開されていない主題のための暫定的な、否定的な空欄によって抽象化されている。推定された非平等、非普遍性、社会文化的な事柄における非進歩、そして少なくとも部分的な非自律、つまり経済主体が文明の脆い構造から自律していないこと。ゾンビを殺しても、それだけでこの空欄が埋まるわけではない。けれど空欄は開いたまま保たれ、だからこそネオリアクションの探索の道も開いたまま保たれる。
ここで起きているのは引き算で、2つのものを合わせてより高い第3のものへ持ち上げる操作はどこにもない。の強調点を数え上げて、から余りなく引くだけで、引いたあとには埋められていない穴が4つ並ぶ。1つ目の穴が推定された非平等なのは偶然じゃなくて、ゾンビの心臓部が何だったのかをLandはコメント欄ではっきり言っている。Bleeding Heart Libertariansなどにとっては、Rawlsが問題なんだ。彼のラディカルに平等主義的な思考実験を真に受ける奴は、誰であれ自由の大義にとっては失われている。だから引き算の最初に消えるのは平等の前提で、残るのは非平等の推定になる。推定と書いてあるのは、それがまだ展開されていない主題の空欄だからで、Landはここではまだ中身を埋めない。埋めないまま、穴の形だけを先に切り出しておく。
公式には実用的な使い方もついていて、Landはそれを経験則として渡している。Will Wilkinsonが頼んだものの逆を、僕は頼む。リベラタリアンの革新をベクトルとして捉えるなら、その正確な反転がネオリアクションの針路を決める。反転したベクトルはもとのベクトルと合流しない。ただ逆を向いて、遠ざかっていく。
Dark Anarcho Capitalism
穴に何が流れ込むのかは、2年あまり後に見えてくる。2016年1月、Landは誰かの文章を貼り付けて、これは単なる社会文化的な記録の問題として、リバタリアン・リアリストが自分がアウター・ライトへ渡ってしまっていたことに気づくまでの思考過程だ、と紹介した。
All people are not equal. In fact, two individuals who are in every socially discernible way the same, have an infinite number of differences between them. When those people have evolved for thousands of years in radically different environments, those people will have even greater differences between them. Such differences will include but not be limited to intelligence, propensity for violence, and propensity for cooperation.
Any libertarian with the slightest bit of observational skills has to have noticed that we're mostly a movement of white males. They would also notice that there is no libertarian movement to speak of outside of cultures descendant from Europeans. This is not a weakness of libertarianism, as our leftist infiltrators attempt to insist. It is rather a very obvious indicator that white males have a greater natural inclination toward market cooperation than other peoples. To insist otherwise is nothing more than the denial of human nature, it is biological and cultural Marxism.
すべての人間は平等ではない。実際、社会的に識別できるあらゆる点で同じ2人の個人のあいだにも、無限の差異がある。その人々が根本的に異なる環境で何千年も進化してきたなら、そのあいだの差異はさらに大きくなる。そうした差異には、知能、暴力への傾向、協力への傾向が含まれるが、それだけに限られない。
ほんの少しでも観察力のあるリバタリアンなら、僕たちがほとんど白人男性の運動だということに気づいているはずだ。ヨーロッパ系の文化の外には語るに足るリバタリアン運動が存在しないことにも気づくだろう。これは、僕たちの中に入り込んだ左翼が言い張ろうとするようなリバタリアニズムの弱点ではない。むしろ、白人男性がほかの人々より市場での協力へ向かう自然な傾向を強く持っていることを示す、ごくわかりやすい指標だ。そうではないと言い張るのは人間本性の否定にすぎず、生物学的・文化的マルクス主義だ。
引用された文章はこのあと、左翼は自由を憎んでいるから白人男性を憎み、そのために第三世界からの補助金つきの大量移民を含めてあらゆる手を使って僕たちを潰そうとする、と続き、こう結ばれる。
While our ideal society would have no government and thus no arbitrary geopolitical borders enforced by State mercenaries, the notion that there would be free and unrestricted travel the world over in the absence of the State is a remarkably ridiculous left wing idea. Borders are the whole point of freedom, as borders are demarcations of property rights.
僕たちの理想の社会には政府がなく、したがって国家の傭兵が強制する恣意的な地政学的国境もない。けれど、国家がなければ世界中を自由に制限なく移動できるようになるという考えは、驚くほど馬鹿げた左翼の発想だ。国境こそが自由の要点なのだ。国境とは所有権の境界線なのだから。
ゾンビの空欄が4つとも、ここでは埋められている。平等は否定され、普遍性は否定され、市場の主体は自分の出自から切り離せないものとして描かれ、国境は所有権そのものとして取り戻される。Landはこれを議論の終わりではなく始まりだと書いて、いくつか細かい異論があることを断ったうえで、リバタリアン右派でいま起きている変異が気になるなら、ここに展示されている洞察の基本構造から始めるべきだと言い、自分の言葉で次の段落を書き足した。
Euro-descended (and specifically Anglo-Dutch descended) males are differentially inclined to libertarian attitudes, to a remarkable degree (statistically speaking). Disentangling race and culture in this regard is far from straightforward. The sex-based dispositional difference is far less noisy. (Of course, the Marxoid explanation is that doubly-privileged Whites Males are defending their social advantages through this ideological preference.) Also notable, IMHO, is the (almost?) equally marked tendency of European peoples towards extreme, highly-idealized and morally-fanatic leftism — compared to the conceptually-fuzzy tribal and communitarian sensibilities widespread elsewhere. Bleeding-heart Left-libertarianism is about as distilled-White as anything ever gets — but with that remark, I'm already straying into the quibble-zone.
ヨーロッパ系の、とくにアングロ・ダッチ系の男性は、統計的に言って際立った度合いでリバタリアン的態度へ差別的に傾いている。この点で人種と文化を解きほぐすのは決して簡単ではない。性別による気質の差のほうがずっとノイズが少ない。もちろんマルクスもどきの説明では、二重に特権を持つ白人男性がこのイデオロギー的な好みを通じて自分の社会的優位を守っている、ということになる。僕の意見では、ヨーロッパの諸民族が、極端で、高度に理想化された、道徳的に狂信的な左翼主義へ向かう、ほとんど同じくらい際立った傾向も注目に値する。ほかの地域に広く見られる、概念的に曖昧な部族的・共同体的な感覚と比べるとそうだ。ブリーディングハートの左派リバタリアニズムは、これ以上ないくらい蒸留された白さだ。ただ、この発言でもう細かい異論の領域へ迷い込んでいる。
ブラジルのリバタリアン運動は白人男性中心でもヨーロッパ系でもなく、指導者には黒人の血を引く人も多いという読者の反論には、Landは2行で返している。HBD型の議論はすべて統計的だ。ブラジル全体のイデオロギー的な風味は古典的自由主義からとても遠い。福祉国家を取り除けばあとはダーウィンがやってくれる、という書き込みに別の読者がそれはちょっと突飛だと返したときには、Landが割って入って、そんなに突飛な話じゃない、やるのも、やったままにしておくのも難しいけれど、と書いている。
穴に何が流れ込むのかについて、Landは前年の秋にもう1つの答えを出していた。98から201か国のデータを使い、統治の有効性が社会全体と知識階級と指導的な政治家の認知的人的資本に結びついていて、統治の有効性も知識階級の認知能力もどちらも生産性と富に強く効いている、と論じた2014年のKodila-Tedika、Rindermann、Christainsenのワーキングペーパーを取り上げて、その教訓を両方向に向けて書いている。
Contra NRx dirigistes, high levels of economic freedom are a statistically-significant indicator of sound government but — contra libertarians — the foundation of social competence lies in cognitive capital, and not liberal institutions. Stated reverse-wise: Free societies are a product of deeper things, all feedback complexities aside, but they are — from the perspective of techno-economic functionality — an evidently desirable one.
NRxの統制主義者に対しては、高い経済的自由は健全な統治の統計的に有意な指標だと言える。けれどリバタリアンに対しては、社会的能力の基盤は自由な制度ではなく認知資本にあると言える。逆から言えばこうなる。自由な社会は、フィードバックの複雑さをすべて脇に置けば、もっと深いものの産物だ。けれどそれは、テクノ経済的な機能性の観点から見て、明らかに望ましい産物でもある。
これでゾンビの正体がはっきりする。HBDなきリバタリアニズムは、自由な制度を原因だと思っている。だから制度さえ正しく設計して、国境を開いて、人間をどこへでも移動させれば、どこでも同じ自由が育つはずだと考えるし、そう考えるかぎり、制度を支えていたより深いものは見えないまま削られていく。Dark AnCapは同じ制度を産物として見る。産物には生産の条件があり、条件は人口ごとに違っていて、その違いは統計的で、国境はその違いを守る所有権の線になる。そしてLandが最後に付け足した一言のせいで、話はもう一段ねじれる。リバタリアン的態度に傾く同じ人々が、道徳的に狂信的な左翼主義にもほとんど同じくらい傾くのなら、ゾンビとDark AnCapは同じ源泉から逆方向へ割れた2つの流れということになる。ブリーディングハートの左派リバタリアニズムは、これ以上ないくらい蒸留された白さなのだから。同じ死体から、2つのものが起き上がった。
キュクロプスの霊廟
片方は外へ歩いていった。もう片方は、Landが2013年の記事の最後にちゃんと埋め戻している。
We can return the corpse of a misconceived 'progressive' liberty to its grave, or rather, to the cyclopean mausoleum it has made for itself: the liberal super-state which protects freedom in detail, with unbounded attentiveness, until it has been obliterated entirely from the earth.
誤って「進歩的」と考えられた自由の死体は、その墓に戻してやれる。というより、それが自分のために建てたキュクロプス的な霊廟に。自由を細部まで、際限のない気配りで守り、ついには地上から完全に消し去ってしまうリベラルな超国家に。
霊廟には墓守がいる。2014年2月、LandはたまたまCatoが場を提供したPeter Thielのエッセイを思い出していた。Thielは2009年、Cato UnboundのThe Education of a Libertarianで、何より重要なこととして、自分はもう自由と民主主義が両立するとは信じていない、と書いている。それはCato研究所が消化できるメッセージではない、とLandは言う。そのうえでLandが取り上げたのは、Catoの研究者Juan Carlos Hidalgoが書いた「社会主義はいかにベネズエラを破壊したか」という記事だった。
記事はかつて南米でいちばん豊かだった国が、犯罪に蝕まれた経済的廃墟へ落ちていく過程を克明に追っている。1999年以降に1兆ドルを超える石油収入を得ながら政府は現金を使い果たし、紙幣を刷って自分を賄うようになった。公式のインフレ率は前年56パーセントで、ジョンズ・ホプキンス大学のSteve Hankeの計算では実質330パーセント。政府は価格統制を敷き、買いだめをしていると非難した企業を襲撃し、中央銀行の欠品指数は1月に28パーセントに達して、基本的な品物の4つに1つが常に棚にない。Hidalgoの記事はこう書いている。どういうわけか、いまやトイレットペーパーのほうが紙幣より価値がある。2013年の殺人は2万5000件近く、10万人あたり79件。Landはここまでの説明に異論はないと言う。社会主義が混沌とした廃墟への道だということは、よくわかった。では社会主義への道は?
For many years [Venezuela] was also a remarkable democracy in a region where most nations were ruled by military dictatorships. Today, socialism has turned Venezuela into an authoritarian basket case that thousands try to escape every year.
ベネズエラは長年、ほとんどの国が軍事独裁に支配されていた地域にあって、際立った民主主義国でもあった。いまや社会主義はベネズエラを、毎年何千人もが逃げ出そうとする権威主義の破綻国家に変えてしまった。
So over the course of "many years" democratic Venezuela transformed into a socialist catastrophe. Are the Cato story tellers going to suggest a narrative for this, or are they going to let us do it for them?
つまり「長年」をかけて、民主的なベネズエラが社会主義の大惨事へ変わったわけだ。Catoの語り部たちはこれについて物語を示すつもりがあるのか。それとも、僕たちに代わりにやらせるつもりなのか。
墓守は墓の中身を誰よりも詳しく記録できる。棚の欠品率も殺人の件数もインフレ率も、トイレットペーパーと紙幣の交換比率まで書ける。書けないのは、その死体がどの道を通ってここへ運ばれてきたかだけで、その道は民主主義という名前をしていて、墓守はその名前を自由の同義語として教わってきたから、道を見ようとすると目が滑る。Landが「民主的な」という一語を引用符ごと拾い上げて差し出しても、墓守はそれを受け取れない。Thielの一文を消化できないのと同じ理由で。
だから霊廟は今日も開いていて、自由を細部まで、際限のない気配りで守り続けている。ゾンビはその中で、自由の名のもとに自由を噛み続けている。外へ出ていった片割れが何を始めるのかは、まだ空欄のままだ。
墓は今日も自由を守っている。
参照
- Nick Land, "Libertarianism for Zombies", Outside in (xenosystems.net), 2013年9月10日.
- Nick Land, "Confused Cato", Outside in (xenosystems.net), 2014年2月26日.
- Nick Land, "Cognitive Capital", Outside in (xenosystems.net), 2015年11月6日.
- Nick Land, "Dark AnCap", Outside in (xenosystems.net), 2016年1月25日.
- The Education of a Libertarian
- Cognitive capital, governance, and the wealth of nations