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Death of Libertarianism, part 3 of 6

curvature (DoL pt.3)

ミーゼスはニュートンで、文明は平行線公準じゃない。Caplanの算術を逆に回すと、平均は同じまま3.125%の自由が生まれる。ハイエクとピノチェト、そしてクヌート王の潮。

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カントを読む最大の理由

墓の外へ歩いていった片割れが最初に向かったのは、意外なことにケーニヒスベルクだった。2013年5月、Landはある記事をこう書きはじめている。

Of all the reasons to read Kant, the most important is to understand Mises, and thus the template for a functional world (however unobtainable). Austrian economics, as formulated in Human Action, consists exclusively of systematically assembled synthetic a priori propositions. Insofar as action is in fact directed by practical reason, the conclusions of organized praxeology cannot be wrong.

カントを読む理由はいろいろあるけれど、いちばん大事なのはミーゼスを理解するためで、つまりは、どれほど手が届かないとしても、機能する世界の雛形を理解するためだ。『ヒューマン・アクション』で定式化されたオーストリア学派経済学は、体系的に組み立てられた総合的ア・プリオリな命題だけでできている。行為が実際に実践理性によって導かれているかぎり、組織化されたプラクシオロジーの結論が間違っていることはありえない。

Nick Land, "Right on the Money (#1)", Outside in, 2013

カントを読む最大の理由がミーゼスだというのは、カント研究者が聞いたら卒倒しそうな順序の転倒だけれど、Landは本気で、続けてオーストリア学派の経済学者に最低賃金を上げると失業が増えると「信じて」いるかと聞くのは無意味だと書く。プラクシオロジーによる経済法則の構築は経験的な規則性に無関心で、合理的な必然性より不確かなものには何であれ無関心なのだから、2 + 2 = 4を信じるかと聞かれて信じると答える奴がいないのと同じで、それは知っているのであって、2という値は倍にすれば4にならなければ2ではありえないし、賃金という語は倍にすれば労働需要が減るのでなければ意味を持たない。経験に敏感なオーストリア学派は、もうオーストリア学派じゃない。ゲーム理論と同じく、合理的な行為者が利益を最大化しようとする場所ならどこでも当てはまるこの体系を、Moldbugはユークリッド幾何学になぞらえていて、それもまた総合的ア・プリオリな構築物であり、理解できる目的という前提に縛られないもっと一般的なモデルの中に、特殊な場合として埋め込まれている。

ユークリッドの体系は5つの公準から始まり、その5つ目、平行線はどこまで延ばしても交わらないという公準だけが2000年以上ずっと座り心地が悪かった。19世紀になってそれを外しても矛盾のない幾何学が組めるとわかり、平らな空間はたくさんある空間のうちのひとつ、曲率がちょうど0の特殊な場合へ格下げされる。平らな紙の上なら三角形の内角の和はきっかりπ\piになるけれど、曲率KKが一定の面に描いた三角形では、その面積をAAとして

α+β+γ−π=KA\alpha + \beta + \gamma - \pi = K A

だけずれて、紙の上で育った直観はそのずれを測る道具を持っていない。Landがミーゼスに対してやったのは、まさにこの格下げだった。

The problem with Mises as guru is that Misesian classical liberalism (or Rothbardian libertarianism) is like Newtonian physics. It is basically correct within its operating envelope. Under unusual conditions it breaks down, and a more general model is needed. The equation has another term, the ordinary value of which is zero. Without this term, the equation is wrong. Normally this is no problem; but if the term is not zero, the error becomes visible.

As a matter of historical fact, this is how the neoreactionary departure from pure libertarianism has occurred. It has stumbled upon non-zero curvature in the domain of political economy, and — unable to comfort itself through the dismissal of this discovery — it has precipitated an intellectual crisis, through which it spreads. Whether faithfully Carlylean, or not, it insists upon a generalization of realism beyond expectations of liberal order. Civilization is the fragile solution to a deeper problem, not a stable foundation to be assumed — as a parallel postulate — by subsequent, elaborate calculations.

ミーゼスを導師にすることの問題は、ミーゼス的な古典的自由主義、あるいはロスバード的なリバタリアニズムが、ニュートン物理学に似ていることだ。それは動作範囲の中では基本的に正しい。普通でない条件のもとでは壊れて、もっと一般的なモデルが必要になる。方程式にはもう1つ項があって、その項の通常の値は0だ。この項がなければ方程式は間違っている。普段はそれで困らない。けれど項が0でなくなると、誤差が見えるようになる。

歴史的な事実として、純粋なリバタリアニズムからのネオリアクションの離脱はこうして起きた。それは政治経済の領域で0でない曲率に出くわし、その発見を退けて自分を慰めることもできないまま知的な危機を引き起こし、その危機を通じて広がっている。忠実にカーライル的であるかどうかはともかく、それはリベラルな秩序への期待を越えたところまで現実主義を一般化することを求める。文明はもっと深い問題に対する脆い解であって、平行線公準のように、そのあとの手の込んだ計算が前提にしてよい安定した土台ではない。

Nick Land, "Right on the Money (#1)", Outside in, 2013

pt.1で見たCaplanの算術は、平らな紙の上の計算だった。人間は交換可能な単位で、どこへ移しても同じ重さを持ち、国境を開いても平均は保存されるという計算は、項が0のあいだは美しく閉じていて、項が0でなくなった瞬間に、内角の和が合わない三角形のように静かに破綻する。文明が公準ならいくら平均しても壊れないけれど、文明が解なら、解の条件を崩した時点で解は消える。Landはコメント欄で、もっとも擁護できるオーストリア学派の論点として、決定的な認識の主体は経済学者の職業集団ではなく価格発見を通じた市場であって、オーストリア学派はまず認識の思い上がりを批判するためにあり、それに取って代わるためにあるのではない、とも書いている。平らな計算の正しさを守りながら、その計算がどこで使えなくなるかを知っていること。

文明は公準じゃない。解だ。

3.125%

曲率がどこから来るのかを見るには、Caplanの算術を逆に回してみるのがいちばん早い。2013年7月、Landはコメント欄で読者のVXXCが引いた一節を、出発点として掲げる。

For freedom and equality are sworn and everlasting enemies, and when one prevails the other dies. Leave men free, and their natural inequalities will multiply almost geometrically.

自由と平等は誓い合った永遠の敵であって、一方が勝てばもう一方は死ぬ。人間を自由にしておけば、その生まれつきの不平等はほとんど幾何級数的に増えていく。

Will Durant, Nick Land "An Abstract Path to Freedom", Outside in, 2013 での引用

VXXCはそれで構わない、僕は自由を取る、と言い、Landは留保なしに同意する。この暗い忠告を、自由と平等主義が厳密な逆数の関係にある1本の軸として読み替えれば、Caplanのモデルはそのまま使える。bliss pointを自由係数に置き換えて、0を絶対的な平等主義、1を制約のない自由とする。自由が最大化された社会は完全に不平等なわけではなく、ただ不平等を問題として扱うことにまったく無関心で、平等への配慮が政策にまったく影響しない、その意味でだけ自由は完成する。このとき「よりよい」「より悪い」という判断はもう要らなくなって、自由に惹かれない人々には平等の国を別の場所で探すことを勧めればいいし、自由の側から見れば平等主義者の脱出は、政治的なエントロピーの散逸に似た、紛れもない善になる。

ここでLandはCaplanのモデルを、ネオリアクションにとって考えうる最悪の極限として扱う。最悪の極限がわかれば、それを厳密に反転させることで自由な社会を取り戻すための抽象的なプログラムが描ける。そこで、SLMがすでに完全に達成された空間を考える。3億2000万人がSLMによって均質化され、全員の自由係数が0.5になっている。SLMの保存則は平均の自由を保つから、最初の分裂は同じ人口の2つの集団を作り、片方は0.6、もう片方は0.4になる。そこから自由な側だけを、同じ手続きで繰り返し割っていく。

320 M×0.5→160 M×0.6+160 M×0.4160 M×0.6→80 M×0.7+80 M×0.580 M×0.7→40 M×0.8+40 M×0.640 M×0.8→20 M×0.9+20 M×0.720 M×0.9→10 M×1.0+10 M×0.8\begin{aligned} 320\,\text{M}\times 0.5 &\to 160\,\text{M}\times 0.6 + 160\,\text{M}\times 0.4\\ 160\,\text{M}\times 0.6 &\to 80\,\text{M}\times 0.7 + 80\,\text{M}\times 0.5\\ 80\,\text{M}\times 0.7 &\to 40\,\text{M}\times 0.8 + 40\,\text{M}\times 0.6\\ 40\,\text{M}\times 0.8 &\to 20\,\text{M}\times 0.9 + 20\,\text{M}\times 0.7\\ 20\,\text{M}\times 0.9 &\to 10\,\text{M}\times 1.0 + 10\,\text{M}\times 0.8 \end{aligned}

5回割ったあとに残る分布は、0.4が1億6000万人、0.5が8000万人、0.6が4000万人、0.7が2000万人、0.8が1000万人、そして1.0が1000万人で、平均を計算し直すと

fˉ=160(0.4)+80(0.5)+40(0.6)+20(0.7)+10(0.8)+10(1.0)320=160320=0.5\bar{f} = \frac{160(0.4) + 80(0.5) + 40(0.6) + 20(0.7) + 10(0.8) + 10(1.0)}{320} = \frac{160}{320} = 0.5

になって、平均は1ミリも動いていない。動いたのは最大値のほうで、もとの人口の

10320=3.125%\frac{10}{320} = 3.125\%

が、本当に自由な社会に住んでいる。Landはおよそ3パーセントと書いていて、もちろんCaplanたちにとっては何も得られていない。平均が同じなのだから。

pt.1のCaplanの世界では、平均が保存されて差異が死んだ。ここでは同じ保存則のまま、差異が生まれる。どちらの算術も保存則には一切手を触れていなくて、違うのは回す向きだけで、片方は混ぜ、片方は割る。割った結果をどう評価するかについて、Landは容赦がない。

For Neoreaction (the NM), it is not a question of whether people (in general) are free, but only whether freedom (somewhere) exists. The highest attainment of freedom within the system, rather than the averaged level of freedom throughout the system, is its overwhelming priority. By reversing the process of demographic redistribution envisaged by the SLM, its ends are achieved.

ネオリアクション、つまりNMにとって問題なのは、人々が一般に自由であるかどうかではなく、自由がどこかに存在しているかどうかだけだ。システム全体に平均された自由の水準ではなく、システムの中での自由の最高到達点こそが、圧倒的な優先事項になる。SLMが思い描く人口再分配の過程を逆転させることで、その目的は達成される。

Nick Land, "An Abstract Path to Freedom", Outside in, 2013

その手前で、Landは分裂のもう半分にも目を向けている。もとの人口の半分、1億6000万の魂は、以前より「公正な」社会を楽しめるよう解放された。飢餓と再教育収容所にあまり気を取られずに、そのことを祝ってあげればいいじゃないか。彼らはきっと、いま自分たちの面倒を見ている体制に投票しただろうし、その内部の政治的な取り決めはもう僕たちの関心事じゃない。そして自由がどこかに存在することの価値を、Landは一言にまとめる。たとえ少数のためでも可能なかぎり大きな自由のほうが、全員のための小さな自由よりいい。質がいちばん大事だ。

この分割が誰と誰を分けるのかという問いに、Landはコメント欄で答えている。

Yes, the whole point of the NM is to simply systematize non-arbitrary divisions (through near-exact inversion of Caplan's SLM formulation). There might be all kinds of ethno-racial correlates of such divisions, but these are distractions (something like emergent phenomena). The sole essential factor is heightened ideological differentiation on the dark counsel axis, splitting a freedom coefficient into maximally-distinguished components ensures that secession serves an effective purpose, rather than merely repeating the same political haze in a larger multiplicity of resonant sub-societies.

そう、NMの要点は、CaplanのSLMの定式をほぼ正確に反転させることで、恣意的でない分割を体系化することに尽きる。そうした分割には民族的・人種的な相関がいろいろあるかもしれないが、それは気を散らすもの、創発現象のようなものだ。唯一本質的な要素は、暗い忠告の軸の上でのイデオロギー的な分化の強化で、自由係数を最大限に区別された成分へ割ることによってこそ、分離は実効的な目的を果たし、同じ政治的なもやを、共鳴し合うもっと多くの下位社会で繰り返すだけにならずに済む。

Nick Land, "An Abstract Path to Freedom", Outside in, 2013, コメント欄

別のコメントでは、本当に自由な社会は、帰結にかかわるあらゆる目的にとって平等に完全に無関心だと書き、香港はフランスより不平等なのか、あらゆる特権を現実的に勘定に入れればそうは思わない、もしそうだとしても僕はまったく気にしない、と付け加えている。

残るのは、擬ロールズ的な反論だった。SLMの中に最初から埋め込まれているその反論は、確率どおりにいけば自由な社会は君のものじゃないかもしれないけど、それでもいいのか、と問う。

It would require a despicable egotist not to delight in it, even at a distance, as a beacon of aspiration, and an idiot or scoundrel not to set out on the same path, in whichever way they were able.

それを、たとえ遠くからでも希望の灯台として喜べないのは卑しいエゴイストだけだし、自分にできるどんなやり方であれ同じ道を歩きださないのは、馬鹿か悪党だけだ。

Nick Land, "An Abstract Path to Freedom", Outside in, 2013

記事は2語で終わる。Disintegrate destiny. 運命を解体せよ。平均は同じまま、自由はどこかに存在しはじめる。

どうしてしないでいられたか

自由の最高到達点だけを優先する、と言い切ったとき、その到達点を誰がどうやって守るのかという問題がすぐ後ろに立っている。その問題の顔をいちばんはっきり見せているのが、Hayekとピノチェトの関係だった。2013年6月、Landは政治学者Corey Robinの文章を、左に傾いてはいるが落ち着いていて読む価値がある、と紹介した。Robinの記事によれば、Hayekは1977年にチリを訪れてピノチェトと会い、翌年にはTimes紙への手紙でピノチェト政権下の個人の自由はアジェンデ政権下より大きいと書き、1981年のEl Mercurio紙のインタビューでは過渡期には独裁が必要なこともあると語って、自由主義を欠いた民主政府より自由主義的な独裁者のほうを好むと述べている。同じ年、Hayekが準備に関わったモンペルラン協会の総会がチリのビーニャ・デル・マールで開かれた。Landが引いたRobinの一節は、この関係を逆向きに問い直す。

Given everything we know about Hayek—his horror of creeping socialism, his sense of the civilizational challenge it posed; his belief that great men impose their will upon society ("The conservative peasant, as much as anybody else, owes his way of life to a different type of person, to men who were innovators in their time and who by their innovations forced a new manner of living on people belonging to an earlier state of culture"); his notion of elite legislators ("If the majority were asked their opinion of all the changes involved in progress, they would probably want to prevent many of its necessary conditions and consequences and thus ultimately stop progress itself. I have yet to learn of an instance when the deliberate vote of the majority (as distinguished from the decision of some governing elite) has decided on such sacrifices in the interest of a better future"); and his sense of political theory and politics as an epic confrontation between the real and the yet-to-be-realized—perhaps the Pinochet question needs to be reframed. The issue is not "How could he have done what he did?" but "How could he not?"

Hayekについて僕たちが知っていることすべてを考えれば、つまり忍び寄る社会主義への恐怖、それが突きつける文明的な挑戦の感覚、偉大な人間が社会に自分の意志を押しつけるという信念(「保守的な農民も、ほかの誰とも同じく、自分の生き方を別の種類の人間に負っている。その時代の革新者であり、革新によって、より古い文化段階に属する人々に新しい生き方を強いた人間たちに」)、エリートの立法者という考え(「進歩に伴うすべての変化について多数派に意見を聞けば、彼らはおそらくその必要な条件と帰結の多くを妨げようとし、こうして最終的には進歩そのものを止めてしまうだろう。多数派の熟慮された投票が、統治エリートの決定とは区別されたかたちで、よりよい未来のためにそうした犠牲を決めた例を、僕はまだ知らない」)、そして政治理論と政治を、現実のものとまだ実現されていないものとの壮大な対決として捉える感覚を考えれば、ピノチェトの問題は問い直されるべきなのかもしれない。問題は「なぜ彼はあんなことができたのか」ではなく「どうしてしないでいられたか」なのだ。

Corey Robin, Nick Land "Hayek and Pinochet", Outside in, 2013 での引用

Landはここに括弧つきの1文だけを足している。

(I agree with Corey Robin that the 'Schmittian' element in Hayek's thinking remains an unresolved theoretical problem, but his concrete judgments — as detailed here — strike me as consistently sound.)

Hayekの思考の中の「シュミット的」な要素が未解決の理論的問題として残っているという点ではCorey Robinに同意するけれど、ここに詳しく書かれているHayekの具体的な判断は、僕には一貫して健全に見える。

Nick Land, "Hayek and Pinochet", Outside in, 2013

Robinが言うシュミット的な要素とは、Hayekの中に、誰にも設計されずに進化してくる規則という自生的秩序の像と並んで、前へ踏み出して規則を据える立法者、決断と例外の側に立つ人物が住んでいることで、Robin自身、それは進化的な規則形成の理論とうまく噛み合わないと書いている。曲率の言葉で言えば、自生的秩序は項が0のあいだの計算で、立法者はその項が0でなくなった瞬間にだけ姿を見せる。Hayekはどちらも手放さなかったし、Landは理論の上ではそれを未解決と呼びながら、判断の上ではHayekの側に立った。その判断の根にあるものを、Landは別の記事のコメント欄で一言にしている。市場の、間違いようのない中期的な受益者は未来であり、未来は投票権を持たない。多数派に聞けば進歩は止められる、というHayekの一文と並べると、ピノチェトの問題がなぜ「どうしてしないでいられたか」になるのかが見えてくる。投票できない受益者のために、誰かが止めないという決断をしなければならないのだとしたら。

クヌート王の潮

では、その決断をする者の上には何があるのか。2016年3月、LandはNRxの陣営で「リベラリズム」という語が、左派にとっての「レイシズム」と同じ働き、つまり貼りつけた時点で議論が終わるレッテルになっていることから書きはじめる。政治の言葉は、最も堕落したヘーゲル的な意味で弁証法的になる、とLandは言う。争奪される旗のように陣営から陣営へと渡されるうちに、言葉は激しくよろめいて自分の反対物へ転がり込み、安定した政治的な意味を保てるのは左派がまだ触れていないものだけになる。だからLandは「リベラル」を3つの語の交点に置き直す。それは還元不可能に近代的で、英語的で、反政治的だ。古代の自由は想像できても古代のリベラリズムは想像できないし、外国のリベラリズムには幸運を祈るしかなく、例外になりうるのはオランダだけで、政治的リベラリズムは最初から実践上の逆説だった。Burkeはこの意味でのリベラルの典型で、その中身は初期英国近代の非国家的な文化、スコットランド啓蒙の思想家たち、英語圏の系譜にある自生的秩序の伝統、政治からの解放としての商業社会、そして分散した競争的な動態を究極の説明原理として据えるダーウィン的な自然主義であって、政治経済における至高の原理はカタラクシー、ごく条件つきでだけ君主制だった。

この文化的な母体から、Peter Thielは「自由と民主主義が両立するとは、もう信じていない」と言った。民主主義は古いリベラリズムの側から批判されていて、Landはその洞察を完全にHoppe的だと呼び、それが自分を含む多くの人をMoldbugへの準備にしたと書いて、Hoppeの言い方はこれ以上改善しようがないと引用する。

Democracy has nothing to do with freedom. Democracy is a soft variant of communism, and rarely in the history of ideas has it been taken for anything else.

民主主義は自由と何の関係もない。民主主義は共産主義の柔らかい変種であって、思想の歴史において、それ以外のものとして受け取られたことはほとんどない。

Hans-Hermann Hoppe, Nick Land "NRx and Liberalism", Outside in, 2016 での引用

同じ記事のコメント欄で、Landはスコットランド啓蒙の見えざる手について、それは摂理をまずニュートンの天体力学へ、次にスコットランド啓蒙の社会理論へ翻訳したもので、つまりは神の手だ、と書いている。ニュートンはここでも、項が0の世界の名前として出てくる。問題はその手が誰のものかで、Landは記事の本文でMoldbugの一節を引いている。Moldbugによれば、主権は主権であって、主権者は定義上法の上にいて、統治の公式も科学もないけれど、リバタリアン的な政策はたいてい良い政策で、それを知るのにHayekは要らなかった。2000年以上前に自分の名の由来がそれを知っていた。無為こそがその本当の名前で、それは巨大な委員会ではなく有徳の君主のための公共政策だ。

The virtuous prince should practice wu wei, and will; that is his nature. Men will flock to his kingdom and prosper there. The evil prince will commit atrocities; that is his nature. Men will flee his kingdom, and should do so ASAP before he gets the minefields in.

有徳の君主は無為を実践すべきであり、実践するだろう。それが彼の本性だからだ。人々は彼の王国に群がり、そこで栄える。邪悪な君主は残虐行為を犯すだろう。それが彼の本性だからだ。人々は彼の王国から逃げ出すし、彼が地雷を埋める前に、できるだけ早くそうすべきだ。

Mencius Moldbug, Nick Land "NRx and Liberalism", Outside in, 2016 での引用

Landが引っかかったのは、この群がることと逃げることの位置だった。

Is this flocking and fleeing to be conceptually subordinated to the analysis of sovereignty, or — in contrast (and in the way of Cnut the Great) — set above it, as the Mandate of Heaven above the Emperor, which is to say: as the enveloping context of external relations, grounded only in the Outside?

この群がることと逃げることは、概念上、主権の分析に従属させられるべきなのか。それとも逆に、クヌート大王のやり方で、皇帝の上の天命のように主権の上に置かれるべきなのか。つまり、〈外部〉にだけ根ざした、対外関係の包み込む文脈として。

Nick Land, "NRx and Liberalism", Outside in, 2016

クヌートの伝説は12世紀にハンティンドンのヘンリーが年代記に書き残したもので、同時代の記録には出てこないからたぶん作り話なのだけれど、話の筋はこうだ。王は浜辺に玉座を据え、満ちてくる潮に、自分の足と衣を濡らすなと命じる。潮は止まらず王の脚を洗い、王は飛び退いて、王の力など空しいもので、天と地と海が従う者だけが王の名に値すると宣言し、それから金の王冠を十字架に掛けて、二度とかぶらなかった。いまこの話は、自然すら思いどおりにできると思い上がって潮を止めようとする権力者のたとえとして使われることが多いけれど、ヘンリーの話の中のクヌートは逆に、廷臣たちのお世辞に対して自分の無力を実演している。主権者は定義上法の上にいる。それでも潮の上にはいない。

コメント欄で、Landはこの構図を自分の言葉で言い直している。Moldbugは国家を企業をモデルにして考えていて、効率的に組織されていれば国家は内側では何にも縛られない執行の裁量を持つべきで、同時にそれを外的で非人称的な基準に従わせる対外関係のシステムの中に存在している。競争、天命、群がることと逃げること、クヌートの潮。内側の視点から見れば秩序の命令が優位に立ち、文脈の視点から見れば群がることと逃げることは従属させられない自由の基準に導かれて、事実上無為の方向へ選択していく。どちらか一方の視点がもう一方に対して疑いなく権威的な優位に立つことは、厳密には達成できない。別のコメントでは、Landはそれをほとんど波と粒子の二重性のようなものだと書き、前者はネオカメラリズムのモデルを優先し、後者はパッチワークの動態を優先する、どちらも明らかに馬鹿げてはいない、と付け加えている。そして記事の本文はこう宣言する。ここで僕たちの忠誠を求めるのは英国の自由の系譜であり、その向こうにある無為、あるいは天命であって、Moldbugはそれに寄与するかぎりで味方であり、そうでなければ敵だ。その膨大な著作の輝きと刺激がどれほどのものであっても。

ミーゼスの体系は、項が0の平らな紙の上では正しかった。Caplanの算術も、紙の上では閉じていた。曲率は紙の外から来る。潮が満ちてくる方向から、群がる人々と逃げる人々の流れとして、どの主権者も命令では止められない外的な基準として。玉座を浜辺に置いてみた王だけが、それを知っていた。

潮は王の命令を聞かない。


参照

  • Nick Land, "Right on the Money (#1)", Outside in (xenosystems.net), 2013年5月22日.
  • Nick Land, "Hayek and Pinochet", Outside in (xenosystems.net), 2013年6月28日.
  • Nick Land, "An Abstract Path to Freedom", Outside in (xenosystems.net), 2013年7月16日.
  • Nick Land, "NRx and Liberalism", Outside in (xenosystems.net), 2016年3月23日.
  • The Hayek-Pinochet Connection: A Second Reply to My Critics
  • King Cnut and the tide